大学4年生の頭

人間と自然との関わりを探す、一次産業志望の大学生ブログ。テーマはこれからの社会と生き方。

「社会のため」は何のため?

 

こんにちは。

いざわしゅんき(@natuandhu)です。

 

突然ですがみなさん、ボランティアは偽善だと思いますか?

 

ボランティアだけではありません。学生運動や地域おこしなども含めた社会貢献活動のすべてを含めて、僕はみなさんにお聞きしたいことがあります。

 

社会のために何かがしたい!

 

と思うことは、偽善だと思いますか?

 

僕はこの問いに対する答えを見つけるために4年もかかってしまいました。

もちろん、今考えていることが正解だとは思いません。これからも考え続けていくであろうこの問いを、今日のテーマにさせていただきます。

 


 

なぜ「社会のため」と言うのか?

 

人の役に立ちたいという気持ちは、誰もがもつ自然な感情だと思います。でも、「人の役に立ちたい」と思うことは、自分自身の欲求でもありますよね。

 

自分は本当に人のためを思って行動しているのだろうか?

 

こんなことをいつも考えているから、「社会の役に立ちたい」と胸を張って言い切る人を見ると、ついネガティブな気持ちが心の中に芽生えます。

 

(この人は社会のためと言うけれども、その本質はどこにあるんだろう。自分を満足させる手段として、社会を利用しているだけなんではないだろうか?)

 

ああ、こんなこと考えてる自分やだな……。

 

そうは思いつつも、社会のために何かがしたい人って本当は何がしたいんだろうということがわからなくて、何か得体の知れないモノに触れているような気分が湧いてくる。

 

これらのことを考えるきっかけとなった言葉があります。

 


 

「地域おこしがしたいとか、
言いださないだろうな」

 

これは、とある田舎で住民の方に言われたこと。

  

東京の大学生」がこの辺鄙な土地に何をしに来たのか。一次産業を勉強するために来たという僕の主張は、地域の住民に理解してもらうためには不十分でした。

 

農村から人が出て行く「一方通行の時代」を経験した地域の方々の多くは自分たちの故郷に自信をもつことができなくて、だからこそ「逆走」する若者を一歩引いたところでみてしまう。

 

僕が田舎に行くと不思議がられる理由の一つには、こんな原因があるかもしれない。

 

でも、それだけじゃないと思うのです。

「地域おこし」という作業は、ミクロな視点とマクロな視点で見方がまるっきり異なる。日本という国の視点に立って考えたときは、過疎化という社会問題を解決する必要性をひしひしと感じるけど、一方地域住民からすれば、必ずしも自分たちの住むマチの活性化を望んでいるわけではない。いやむしろ、「変化」を嫌うという気持ちさえある。

 

「地域おこしがしたいとか、言いださないだろうな」

 

これは、自分たちが望んでいないことを押し付けてこないだろうかという地域住民の声そのものだったのだと思います。

 


 

人のためにしたことが、
人のためになるとは限らない

 

作家の五木寛之が描いた大河小説『青春の門』の一節に、こんな描写があります。ときは1960年代。資本家に搾取される労働者たちを助けるために、北海道の漁村でプロレタリアートの解放運動を行っていた早稲田の学生に対し、住民が言い放ったこと。

 

自分のためにやってるんなら、好きでやってるってことだ。そんならそういう態度でやればいい。だが、あんたらはそうじゃないぜ。世のため、人のため、それから正義と理想のため、革命のため、働くものの未来のため、そんなご立派な目的のために人々の先に立って闘うって感じの顔つきじゃないか。それが気にくわねえのさ。

 

ハッ……。このシチュエーションは、僕の農村のそれとよく似ている。

 

目の前のその人のためにやっていることが、その人によって拒絶された瞬間でした。

 


 

僕なりの答え

 

「社会」のためになることをする。僕の考えが良くなかったのは、その「社会」に自分が含まれていなかったからではないでしょうか。

 

「自分」たちが暮らす社会の一員として、その社会が抱える問題を解決する。

このことは、「自分」の社会がより住みやすいマチになるということ。

 

社会のために何かをするということは、自分自身のためにすることでもある。

 

その地域を「他人ごと」として捉えないこと。

「あなた」のためにやるのではなく、僕とあなたの暮らす社会のための行為であることを知ること。自分の行為を押しつけず、感謝を強要しないこと。

 

社会貢献活動をする人間の心構え……といったら大げさな表現かもしれませんが、これが僕の考えです。

 


 

自分の社会ってどこまでだろう

 

「自分ごと」として社会問題と向き合う。

そのためには、自分と関わりのある社会の範囲を知る必要がある。

 

「社会」とは、人によって広さを変えるものです。

 

政治に興味をもちにくい社会になったのは、現代社会がどこまでも広がりをもつからだと思います。インターネットを媒体にして、世界中と繋がることができるけど、自分自身の暮らしと関わりをもって考えることができるのはどこまででしょう。

 

中東のテロと近所の火事が、同じ「リアル感」で情報として流れてくるインターネットの世界では、その出来事と自分との距離感を測りにくいですよね。

 

だから、カンボジアに学校を建てることが「自分」たちが暮らす社会をより良くすることだと思う人もいれば、「他人」のためにお金を費やすより、まず「自分」たちの生活を大事にしたいと思う人もいる。

 

別に、どっちが正解とかそういうことじゃない。

 

でも、もし「地域」のために何かをするのであれば、その「地域」を自分が暮らす社会と関連づけて考えることができなければ、やっぱり押しつけがましいと思う。

 

そして僕は、できればよりたくさんの人や地域を身近に感じられる人間になりたい。

 

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あの子たち、元気かなって考える。 

 


 

結論

 

「社会のため」とは何か。

それは、自分のためであり他人のためでもあること。

 

でも結局社会貢献活動だろうが何だろうが、その行為をしているのは自分自身だから。

 

やりたいからやってんです

 

いつだってこう言い切れるくらいがちょうどいい。

 

①自分のやっていることが

②自分のやりたいことで、

③それが誰かのためにもなってる。

 

こんな気持ちの循環を大事にしようじゃないか。

 

以上、「社会貢献活動は偽善じゃない」という記事でした。

 

よかったら『青春の門』読んでください。

長いですよ笑。

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