大学4年生の頭

人間と自然との関わりを探す、一次産業志望の大学生ブログ。テーマはこれからの社会と生き方。

ミニマリスト志望

 

試験勉強のためにカフェに行き、パソコンを開くと同時にブログを書き始めたダメ大学生です。今回のテーマはミニマリスト。近頃よく耳にする言葉であり、また僕自身もミニマリスト志望を名乗る者の一人です(あくまで志望というのが重要)。ブリタニカ国際大百科事典の解説をみてみましょう。

 

ミニマリスト

最小限綱領派と訳す。最小限度の要求を掲げる社会主義者の一派をいう。かつてロシア社会革命党内の妥協的な穏健分子がこう呼ばれた。(以下略) 

 

ミニマリストって、元を辿ると社会主義者の一派を指していたのですね。資本主義がもたらした大量消費の否定という見方をすればあながち間違っていませんが、現代では新しい言葉の意味合いをもって使われるようになりました。

 

足るを知る暮らし

世間一般の定義をまとめると、不要なものを排除することによって必要最低限度のモノで暮らす人を、ミニマリストと呼ぶようです。際限なくモノが手に入る時代において、常に「求める」暮らしから「足るを知る」暮らしへと考え方を変える。自分が所有するモノに対してこだわりをもつ人たちのことです。

 

モノを持つことの虚しさからアメリカの富裕層が提唱し始めたそうですが、簡単に例えるなら、お気に入りのラーメン屋さんに通いつめ毎日ラーメンを食べ続けた結果、大好きだったラーメンがもう食べたくなくなってしまったということです。

 

 限界集落に住む

僕が現代社会の大量生産・大量消費社会に強く疑問をもっていることを話すために、京都にある人口80人の限界集落・久多に行った体験を紹介したいと思います。

 

京都駅から電車・バス・車と乗り継いで2時間弱。果てしなく秘境感漂うこの土地に、僕は今年2月に村留学というプロジェクトで8泊、その後インターン生として春に1か月滞在させていただきました。

 

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 滞在先からの風景。

 

 久多にはお店がありません。雪で埋まっていただけかと思いましたが、雪が解けても何もありませんでした笑。この村から学び得たものは多くありますが、素直に1番衝撃を受けたのは、まさしくその「ない」ことでした。この「ない」という感覚は、もちろん都会と比較したものでしかありません。本屋がない。パチンコ屋がない。生活必需品を買う場所さえない。人間が生きるために必要なものがないと感じました。

こんなにも「ない」環境のなかでも、暮らしを営む人たちがいる。その発見は自分自身の生活を改めて考えるきっかけになりました。

 

「ある」が当たり前の価値観

スーパーに行くと、溢れるほどモノがありますよね。そんなことは当たり前だとして、僕が言いたいのは「ある」のが当たり前だと思ってしまっている僕たち消費者の考え方に根本的な問題があるのではないかということです。

 

もし買いたいモノが品切れだったら、僕たちは品揃えの悪いお店だと判断してそのお店を使わなくなる。今の日本にはモノが溢れるお店が他にもたくさんあるから、僕たちは買う場所を選択できる。結果、お店は必要以上のモノを用意することを強いられている。僕たち消費者が、無意識に大量に生産しなければならない社会をつくらせてしまっているような気がします。

 

別に、なくてもいいんじゃない?

本題に戻ります。僕がミニマリストを目指す訳。それは、ないことを受け入れて生きる覚悟をもつ人間になりたいと思ったからです。断捨離やら何やらと、ミニマリストという言葉は極端に捉えられがちだけど、大切なのはどうしてそういう暮らしを選択するのか、その理由だと思います。

この資本主義社会で生きている時点で、大量生産の仕組みに与せずに暮らすことは不可能に近い。だからこそ、なくても生きていけるんだという気づきをもって生きることが第一歩だと思うんです。

 

最後に

一緒に村留学で久多に行ったメンバーにこの前会う機会がありました。そこでビックリしたことがあったんですが、彼女は村留学後から今に至るまでの約半年間、一度もコンビニを使っていないそうです(本当にすごい…尊敬)。

正直この大都会に住みながらモノを買わない暮らしを貫けるほど僕は意思の強い人間ではなくて。大量消費から逃れられない自分に悩むことしかできていません。

だから、「ミニマリストになりましょう」なんて、僕には言えない。でも、あることを当たり前だと思わない。「無意識に」社会に負担をかけるのをやめる。そうやってミニマリストの心を育み、ときに共有しながら、これからの暮らしを考えていきたいと思うのです。

 

みなさん、ミニマリストに興味はありませんか?