大学4年生の頭

人間と自然との関わりを探す、一次産業志望の大学生ブログ。テーマはこれからの社会と生き方。

近代化の悪いところ

 

直島から犬島にやってきました。

運賃が高かったなと、半ば後悔しながらやってきましたが、大きな収穫がありました。

 

今回は、犬島精錬所ルポルタージュです。

 

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まずは犬島精錬所について、簡単にご説明します。設立されたのは1909年、煙害対策や原料輸送の利便性から島に建設されたものの、銅価格の大暴落によってわずか10年で操業が終了してしまったのです。

 

しかし、煉瓦造りの工場跡や煙突が、日本の産業革命を伝えるものとして大切に保存されています。

 

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なぜこの精錬所が僕の印象に残ったのか。

その答えは、ここに併設された美術館に展示されていた三島由紀夫の文章にあります。

 

日本の近代化を危惧していた三島由紀夫は、アメリカの奴隷のような日本を痛烈に批判して自殺します。

日本のアイデンティティが失われることに警鐘を鳴らしていたのです。

 

このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである(果し得ていない約束)

 

競争市場主義が貫かれた現代社会では、「敵に負けないための発展」が強いられています。

 

競争とは、ゴールの方向に行われるものです。競い合い、お互いに反発しているようにみえて、実は均質化しているともいえます。

 

経済成長率のニュースが毎年世間を騒がせますが、そもそも何のために社会は発展するのでしょうか。

私たちが目指すゴールとは何なのでしょう。

 

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歴史的遺産となり果てた犬島精錬所の姿と三島由紀夫の危惧を連ねた文章は、現代社会の在り方に疑問を投げかけています。

将来の夢の答え方

 

こんにちは。モスバーガーでチーズバーガーを食べています。

今日は「将来の夢」について。僕の夢ではありません。将来の夢とは何かという話です。

 

大学4年生になって、会う人ごとに将来の夢を聞かれるようになりました。

繰り返し聞かれていることなのに、いまだに僕はその質問の答えがわかりません。

 

「どうして周りの人は、こんなに難しい質問を平気でしてくるんだろう」

質問に答えられない自分と向き合うなかで、一つ気付いたことがありました。

 

将来の夢を語ることの重みが、自分のなかで強すぎる。

 

僕はいわゆる「就活」をしない選択をしました。考えた上の決断でしたが、他人からは当然「就活をしないなら別にやりたいことがあるんでしょ」という目でみられます。それをプレッシャーに感じるようになりました。

 

「将来何がしたいの?」

 

何度も聞かれるから、ちゃんと返事がしたい。いや、自分なりに考えて決めたことだったからこそ、答えられないのは悔しい……。

僕にとってこの質問に答えるということは、相手を納得させる以上に自分の人生の選択に自分が納得することでした。

 

仕事=将来の夢

 

「一次産業に就きたい」

僕がこれを言い始めた理由を説明するために、日常を振り返ってみます。

 

あなたが社会人、つまりお仕事をされている方と会ったとき、最初に聞くことは何でしょうか。当然名前は聞くとして、おそらく次に聞くのは、仕事ではないでしょうか?

 

「お仕事は何をされているんですか?」

 

僕は、この質問が、社会人版の「将来の夢は何ですか?」だと思っています。起業家などの一部を除けば、社会人に対して将来何がしたいか聞くシチュエーションってあまり遭遇しない気がします。

 

もしそうだとしたら、学生に将来の夢を聞く大人の真意は、将来何の仕事に就きたいかを知ることにあるということになります。

 

詳しい話をこの記事でしませんが、僕の将来の夢は百姓になることです。百姓とは、暮らしを自分でつくる力のある人間のことを意味しています。

でも、この夢を語ったところで受け入れてもらえない。なぜなら、大人が聞きたいのは僕が何の職業に就きたいか、そしてどうお金を稼ぎたいかだからです。

 

だから、僕は「一次産業に就きたい」と答えるようになりました。

 

大人には夢がないのか。

もし将来の夢がもっぱら仕事を指すのだとしたら、就活が終わった時点でその人の将来の夢が終わってしまうっていうことですよね。

うーん。どうなんでしょう……。おそらく表面上は「夢」という言葉を装っていないだけで、仕事の範囲を超えて「やりたいこと」があって、それが大人にとっての夢に該当する。そうだとしたら、「将来の夢」の先にも「夢のようなもの」があるということです。

 

夢は連鎖する

おおよそ将来の夢は、語っている本人からすれば叶えることを前提としている

 

もしそうだとすれば、将来の夢とは、人生において通過点でしかないことになります。言い換えるなら、将来の夢を叶えた先に次の将来の夢があるべきです。その夢の先にも、そしてその先にも……。

 

夢が連鎖するものならば。僕は将来の夢それ自体よりも、叶えた先にある人生を考えることこそ重要ではないかと思うんです。

 

僕の人生に置き換えて考えてみるとします。

将来の夢は百姓になること。では、その先は……。

 

最終的にどうありたいか

百姓になったその先の夢を考えても、思いつくことがありません。

現状僕にとって最上位にある夢が百姓だからという捉え方は正しいと思います。

ももう一つ、考え方があります。

 

「〜になる」という夢を叶えた上で、「〜である」という状態を目指す。

 

「百姓になる」という夢は叶います。でも、「百姓である」という夢は、百姓になった後も一生続きます。つまり、夢の最終形態としてあるべき形は「〜である」。僕にとっての「将来の夢」とは、そういうものなんじゃないかと思っています。

 

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将来に続く橋的な(写真不足)。

 

「将来何がしたいの?」

 

この質問に答えられるようになるために、このブログを始めました。今まで感じてきたことをまとめるつもりが、書きたいことは増えるばかりです。

 

もう少し、自分の頭の中と向き合いたいなー。

今日は以上です。

 

ミニマリスト志望

 

試験勉強のためにカフェに行き、パソコンを開くと同時にブログを書き始めたダメ大学生です。今回のテーマはミニマリスト。近頃よく耳にする言葉であり、また僕自身もミニマリスト志望を名乗る者の一人です(あくまで志望というのが重要)。ブリタニカ国際大百科事典の解説をみてみましょう。

 

ミニマリスト

最小限綱領派と訳す。最小限度の要求を掲げる社会主義者の一派をいう。かつてロシア社会革命党内の妥協的な穏健分子がこう呼ばれた。(以下略) 

 

ミニマリストって、元を辿ると社会主義者の一派を指していたのですね。資本主義がもたらした大量消費の否定という見方をすればあながち間違っていませんが、現代では新しい言葉の意味合いをもって使われるようになりました。

 

足るを知る暮らし

世間一般の定義をまとめると、不要なものを排除することによって必要最低限度のモノで暮らす人を、ミニマリストと呼ぶようです。際限なくモノが手に入る時代において、常に「求める」暮らしから「足るを知る」暮らしへと考え方を変える。自分が所有するモノに対してこだわりをもつ人たちのことです。

 

モノを持つことの虚しさからアメリカの富裕層が提唱し始めたそうですが、簡単に例えるなら、お気に入りのラーメン屋さんに通いつめ毎日ラーメンを食べ続けた結果、大好きだったラーメンがもう食べたくなくなってしまったということです。

 

 限界集落に住む

僕が現代社会の大量生産・大量消費社会に強く疑問をもっていることを話すために、京都にある人口80人の限界集落・久多に行った体験を紹介したいと思います。

 

京都駅から電車・バス・車と乗り継いで2時間弱。果てしなく秘境感漂うこの土地に、僕は今年2月に村留学というプロジェクトで8泊、その後インターン生として春に1か月滞在させていただきました。

 

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 滞在先からの風景。

 

 久多にはお店がありません。雪で埋まっていただけかと思いましたが、雪が解けても何もありませんでした笑。この村から学び得たものは多くありますが、素直に1番衝撃を受けたのは、まさしくその「ない」ことでした。この「ない」という感覚は、もちろん都会と比較したものでしかありません。本屋がない。パチンコ屋がない。生活必需品を買う場所さえない。人間が生きるために必要なものがないと感じました。

こんなにも「ない」環境のなかでも、暮らしを営む人たちがいる。その発見は自分自身の生活を改めて考えるきっかけになりました。

 

「ある」が当たり前の価値観

スーパーに行くと、溢れるほどモノがありますよね。そんなことは当たり前だとして、僕が言いたいのは「ある」のが当たり前だと思ってしまっている僕たち消費者の考え方に根本的な問題があるのではないかということです。

 

もし買いたいモノが品切れだったら、僕たちは品揃えの悪いお店だと判断してそのお店を使わなくなる。今の日本にはモノが溢れるお店が他にもたくさんあるから、僕たちは買う場所を選択できる。結果、お店は必要以上のモノを用意することを強いられている。僕たち消費者が、無意識に大量に生産しなければならない社会をつくらせてしまっているような気がします。

 

別に、なくてもいいんじゃない?

本題に戻ります。僕がミニマリストを目指す訳。それは、ないことを受け入れて生きる覚悟をもつ人間になりたいと思ったからです。断捨離やら何やらと、ミニマリストという言葉は極端に捉えられがちだけど、大切なのはどうしてそういう暮らしを選択するのか、その理由だと思います。

この資本主義社会で生きている時点で、大量生産の仕組みに与せずに暮らすことは不可能に近い。だからこそ、なくても生きていけるんだという気づきをもって生きることが第一歩だと思うんです。

 

最後に

一緒に村留学で久多に行ったメンバーにこの前会う機会がありました。そこでビックリしたことがあったんですが、彼女は村留学後から今に至るまでの約半年間、一度もコンビニを使っていないそうです(本当にすごい…尊敬)。

正直この大都会に住みながらモノを買わない暮らしを貫けるほど僕は意思の強い人間ではなくて。大量消費から逃れられない自分に悩むことしかできていません。

だから、「ミニマリストになりましょう」なんて、僕には言えない。でも、あることを当たり前だと思わない。「無意識に」社会に負担をかけるのをやめる。そうやってミニマリストの心を育み、ときに共有しながら、これからの暮らしを考えていきたいと思うのです。

 

みなさん、ミニマリストに興味はありませんか?

 

大学生という回り道

こんにちは。今月末の試験に備えて週5で授業に行き、勉強に励んでいます。

 

今日は、「大学中退」をテーマに据えてブログを書きたいと思います。中退を考えている人の参考になれば嬉しいし、このことは僕の大学生活の中で大きな挫折体験でもあるので。はじめに断っておくと、僕は中退することができませんでした。

 

僕の将来の夢は、百姓になること。百姓とは、暮らしを自分でつくる力のある人間のことを意味しています。そのために、一次産業に従事したいと考えるようになりました。

 

将来の夢が自分のなかで具体的に見えてきた頃、だいたい大学2年生の終わり頃になりますが、僕は大きなわだかまりを抱えるようになりました。

 

どうして大学に行っているんだろう。

 

自分にはやりたいことがあるのに、そのこととは無関係の法律を、高い学費を払って、膨大な時間をかけて学ぶ意義は何だろう。こんな回り道をしている場合じゃない。

 

大学を中退しよう。

 

大学3年生の夏が終わった頃、僕は中退を決意します。アルバイトを辞め、一人暮らししていたアパートを退去しました。大学生としてのしがらみを絶った後に、暫定的な就職先をみつけ、あとは親に話すだけでした。

 

大学を中退する理由はいろいろあると思います。経済的な理由だったり、人間関係や学業でうまくいかなかったり。

 

僕の場合は、新しくやりたいことができたことが中退を考えた理由でした。上述のものと比べればポジティブな理由だったからこそ、僕は中退することが悪いわけがないと考えていました。

 

では、なぜ中退できなかったのか。

それは、覚悟が足りなかったからです。

 

新しい就職先に辞退の旨の連絡をしました。

自分には夢を叶える覚悟がなかったことに気づき、自分への失望から気力が湧かない中で授業に行って、椅子に座って講義を聞く毎日。もちろん集中できるはずもなく、何のために生きてるのか真面目に考え始めたりしてました笑。

所属していたサークルでやらなければならないことがあったおかげで元気になっていきましたが、思い出すとなかなか病んでたなーと。

 

さて、やっとこさこの記事の結論です。

 

大学を中退しなくてよかった。

 

あれだけ悩んでいたけど、結局僕が中退しようとした理由は、新しくやりたいことができたわけではなくて、大学で学ぶ意義を見失っていたからだったのだと気づきました。めっちゃネガティブ……。

 

別に僕は将来の夢を叶えるために大学に進学したわけではなかったんです。法律という学問を純粋に勉強できればそれでよかった。サークル活動を通して「その時」を楽しく過ごすことができたなら、僕の大学生活は意味のあるものだったんです。それを忘れて、いつの間にか将来のことしか考えられなくなっていました。

 

回り道した方が楽しい。

人生って、別に夢のためにあるわけじゃない。夢があるのは素敵なことだけど、それに縛られて他のことができなくなるなら、むしろない方がいい。

今抱く夢や信念を忘れずに進めば、たとえ今やっていることが夢を叶えるためにどんなに遠回りなことでも、意味のないことにはならない。

 

もし僕と同じような理由で中退をするか悩んでいる人がいたら。

今がそのタイミングかを考えるのがオススメです!

少しでも迷いがあるなら、それを決断するには早いかもしれない。本当に迷いがないか。覚悟があるか。それは自分自身に聞けばわかることだと思います。

 

単に過去を肯定しているだけかもしれないけど、僕はあの時の選択は間違っていなかったと、今は心から言えます。大学生活はとても楽しいんです。

 

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勉強してるっぽい写真inマイアミ

 

あえて遠回りを選択することが、豊かな人生の秘訣かもしれない。

 

まだそこそこ若いわけだし、無駄なことをいっぱいして生きていきたいですね!笑 

自然と人間との関わりをつくりたい

 

こんにちは。

いざわしゅんき(@natuandhu)です。

 

僕は第一次産業に将来の夢を抱いています。

どうして一次産業に興味があるのか。今回は頑張ってまとめてみました。

 

ちらりと答えを先に書いておくと、

一次産業の役割は「生産」することだけじゃない

ということです。

 


 

一次産業のイメージ

 

そもそも一次産業とは何を指すのでしょう。早速ウィキってみましょう!

 

第一次産業には、自然界に働きかけて直接に富を取得する産業が分類される。クラークによれば農業、林業、漁業がこれに該当する……(以下略) 

 

第一次産業のイメージといえば、こんな感じでしょうか。

 

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ひたすらバレエショを拾う風景。

 

その通り、第一次産業の主たる役割は生産することだと思います。耕種農業ならお米や野菜を、畜産なら牛や豚・鶏を、漁業なら魚を、林業なら木を生産しますね。

 

でも僕は、「生産する」ことへの興味から一次産業に興味をもったわけではありません。それよりも、

 

自然と第一線で関わりをもつことのできる仕事

 

だと感じたことが、一次産業に興味をもったきっかけでした。

 


 

一人暮らしが教えてくれたこと

 

話が変わりますが、僕は大学1年から3年までの間一人暮らしをしていました。

 

場所は東京都新宿区。日本で一番便利な場所かもしれないここ東京へ、僕は自分が生きるのにどれくらいのお金・労力が必要となるのかを知るためにやってきたのです。

 

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退去日にアパートの前で撮った写真(部屋の中の写真がなかった……)。

 

一人暮らしとなると、食事を自分で用意しなければなりませんよね。ぶっちゃけこの頃の僕の食生活は崩壊していましたが、スーパーやコンビニには頻繁に行っていました。

 

一人暮らしを通して感じたのは、今の社会での暮らしは人間と自然との関わりがあまりにも見えづらいということです。

 

ウィキの引用文のなかに、「自然界に働きかけて」とありますよね。そもそも人間の暮らしというのは、自然界の中からいただいたものでできています。

しかし僕は、スーパーやコンビニで売られているものが自然によってつくられたものであるということを実感できませんでした。

 

今の社会で暮らしていると、自分たちの社会は自分たちの手でつくることができると、そしてお金を払えばいくらでも手に入ると感じてしまうような気がするんです。

 


 

ありがたみがない

 

 


 

まとめ

 

 

でも実際はそうではなくて、人間が生きることで死んでいる人間以外の自然がいますよね。このことを意識しないまま自然に負荷をかけ続ける生き方をしたくない

違う生き方を模索した末に辿り着いたのが、一次産業の現場で働くことによって自然との関わりを大切にしながら暮らしたい、という答えでした。

 

論点がズレるのでここでは深く述べませんが、人間がいることによって自然が壊れるのではなくて、自然のなかで人間という生き物が果たす役割があると僕は考えています。

 

僕にとって一次産業とは単に作物などをつくる仕事ではなく、

自然と人間との関わりをつくることのできる仕事

だと思うのです。

 

今のところこの辺りで思考が停止していますが、大学卒業も近づくなかで、より具体的に職業を考える段階まで考えていきたいというところです。

 

今日のところはこんな感じで。また思いついたら更新します。

 

汚いところに無関心な社会

僕が今考えていることを話す上で、インドで感じたことを話さないわけにはいきません。

 

一次産業に興味をもったきっかけも、インド旅行でした(後から考えてみたらなんですが)。

 

インド旅行記は今後少しずつ書き溜めるとして、今振り返って思うことを書きます。

 

結論から述べると、

インドの社会が当たり前で、日本の社会はあくまで「作られた」社会だというのが、僕がインドで感じたことです。

 

  • ボコボコの道路

まず、インドはインフラ整備が進んでいないため、道がボコボコでした(デリー市街は除く)。車は隙間を縫うようにして進み、常にクラクションの音がしています。信号はほぼありませんでした。僕が滞在していた半月間で、2度事故に遭遇しました。

 

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 日本は運転者のマナーも良く、ほとんどの道がコンクリートで固められていて、信号もたくさんありますよね。

 

  •  動物がいっぱいいる

インドでは牛が道路にたくさんいます。もちろん犬も猿もいます。糞は片付ける人もいないため、カラカラとした熱気と混じって強烈な臭いがしていました。

 

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 日本の道路には動物はいませんよね。強いていうならノラ猫がいますが、犬、ましてや牛がいたら警察沙汰です。

 

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  • トイレが汚い

ボットン便所であることは言わずもがな、トイレットペーパーがありません。代わりに、水の汲んであるバケツが置いてあります。左手で拭きます。寝台列車のトイレに関しては、列車に穴が空いているだけです。僕がしたうんちは、走り行く列車から線路に落ちていきました。

 

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ラクダの糞で遊ぶ子どもたち。

 

  • ポイ捨て

ポイ捨ても社会的に容認されているところがありました。ガンジス川で船に乗った時にインド人が言っていましたが、ゴミを捨てれば貧しい人が拾うから良いんだそうです。

 

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枚挙にいとまがないのでこれくらいでやめますが、インドと日本の社会を比較したときに、インドの社会こそ当たり前だと気付きました。

今の日本の社会は、そういう「当たり前」の社会に安全を上塗りした社会だということです。

 

そして、安全な社会であるがゆえに、汚い部分に対して無関心な社会でもあると思いました。

 

僕はインド旅行の最終日に野犬に噛まれ、狂犬病の注射7回と破傷風の注射を打ちました。

その時はとてもイライラしました。インドは日本と違って社会整備が遅れすぎていると感じたからです。

 

 でも日本の社会にノラ犬がいないのは、1950年に制定された狂犬病予防法に基づいて徹底した野犬の駆除が行われたためです。減ってはいるものの、今なお大量の犬猫が保健所で殺処分されています。

平成27年度における殺処分数は犬が15,811匹、猫は67,091匹。(環境省発表) 

 

 ゴミについてはどうでしょう。

袋に詰めてゴミ捨て場に出しておけば、ゴミ収集車が回収してくれますよね。捨てたゴミが後でどうなるは考えにくいです。トイレに関しても同じようなことが言えると思います。

 

ゴミ収集車はゴミを、トイレはおしっこやうんちを、自分が暮らす社会から取り除いてくれると思っている気がするんです。

 

でも、実際はそうではないですよね。大量消費社会の中でゴミの大量廃棄が問題となっています。ゴミ収集車がゴミを連れていく先も、同じく僕らが暮らしている社会です。

 

人間が生きるということはそんなにきれいなもんじゃない。 

 

これが、僕がインドで気づいたことです。

 

人間の汚さをちゃんと認識して、きれいな社会の裏に蓄積する「汚さ」と向き合っていきていかないと、いつか隠しきれなくなった「汚さ」が、人間がコントロールできないものになって現れる時が来るんじゃないか、と。

 

そんなこんなで僕はインド旅行後、大学生活中に一次産業の現場を見て回ろうと決意したわけなのですが、それはまた次回ということで。

 

インド旅行は社会のこれからを考える機会を与えてくれたんです。ああ、懐かしい。あれからすでに2年が経っているとは…!

 

書きたいことも増えてきましたが、少しずつ更新します。よかったらお付き合いください。

 

ではまた!

旅の意義について考えてみた。

 

「どうしてそんなにあちこち行ってるの?」

 

そんな指摘を受けたので、旅を頻繁にする理由をまとめることにしました。

 

僕が旅をする理由。それは、実際に自分の目で見て、肌で感じることを大切にしたいからです。

 

今の時代、タブレット1つあれば何千キロも離れた場所で起きたことさえ情報としてすぐに手に入ります。

 

でも、タブレットのみを通して得た情報は、あくまで自分の世界の外側で起きたこととして認識してしまうような気がします。

 

去年の11月8日。

インドのモディ首相が演説で、1000ルピーと500ルピー通貨がその日から法的通貨でなくなることを発表。銀行の前に人が殺到し、大混乱が起きました。

 

Facebookでこのニュースが流れた時僕は、インド旅行中に頻繁に使っていたあの紙幣が、こんなにもあっさり貨幣としての価値を失ってしまうのかと、衝撃を受けました。

 

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ガンジス川で身体を洗うインド人。

 

情報が流れてきた時に、どれくらい身近にその情報と接することができるか。

遠い世界で起きたことでも、自分の住む世界で起きたこととして感じられる人になりたいと思うんです。

 

これから先わらじを脱いでどこかに住むことになったとしても、その世界がすべてになるんでなくて、「ああ、あの人元気かな」とか時々思い出したりして。

 

自分が住んでいる場所以外でも、たとえどんなに文化や価値観が違うとしても自分と同じように暮らしを営む人がいることを知りながら生きることって素敵だと思います。

 

あり余る時間と体力に任せて、国内外問わずもう少し知らないところに足を運んでみたいなーと思うのです。

 

まあ、暇なだけなんですけどね。笑